特発性血小板減少性紫斑病(ITP)闘病記![]() 「私たちは確かにその音を聞くだろう」 ー三万一千四百二十九分の一の物語ー 数が減少するため種々の出血症状をひき起こす病気のことをいいます。推定発病または診 断から6ヶ月以内に治癒する「急性型」は小児に多く、6ヶ月以上遷延する「慢性型」は、 成人に多い傾向にあります。 2. この病気の患者さんはどのくらいいるのですか います。人口100万人当たり11.6人の発症があると推定されます。特定疾患医療受給者 証交付件数は平成14年度末現在31,429件です。 3. この病気はどのような人に多いのですか ます)、小児では男女同数、成人では男女比1:3と、女性に多く発症します。 発症年齢は、小児では5歳未満がもっとも多く、次いで5〜9歳、10〜14歳の順に多くみ られます。成人では20歳代後半と40歳代後半に多いようです。 うと推定されています。しかしながら、なぜ「自己抗体」ができるのかについては、未だ はっきりとしたことはわかっていないのが現状です。 ません。 なり、次のような種々の程度の出血症状がみられます。 ドが使われ,血小板数や症状をみながら徐々に減量していくのが一般的です。副腎皮質 ステロイドが無効な場合や、副作用のために治療の継続が困難な時には、手術で脾臓を 摘出することもあります(「摘脾」といいます)。摘脾が無効の時にはアザチオプリン やシクロホスファミドなどの免疫抑制剤を用いることがあります。また、ガンマ・グロ ブリンを使った治療も、一過性の効果しかないことが多いのですが、有効率は高いので 、摘脾など手術の前や緊急時などによく用いられます。また、胃十二指腸潰瘍の原因と なるピロリ菌という細菌を保菌する場合、抗菌薬で除菌することで、半数以上の患者さ んで血小板数が増えます。 です。慢性型でも約20%は副腎皮質ステロイドで治癒し、さらに摘脾で60〜70%が治 癒します。ただし、それでも残りの約10〜20%は治療に抵抗性(あるいは難治性)で、 出血に対する厳重な注意が必要とされますが、致命的な出血を来して死亡する例はまれ なようです。 ままA病院へ入院。(9才、体重20kg)(A病院、小児科) 上昇のみで、効果無し。 2004年 服用。 130000(体重25、5キロ) 数値110000 隔日) 数値65000 数値72000 数値64000 数値58000 数値54000 数値50000 数値51000 数値55000 数値67000 数値50000 5cm) ( 隔日)数値195000(風邪のため) オウギから変更) mg)を服用。
2003年 止まらない」という学校からの連絡を受け、そのまま近くのF病院へ。血液検査の結果、 血小板が極端に少ないとのことで、入院の準備をしてA病院へ向かう。着いた頃にはも うあたりがすっかり暗くなっていた。 救急センターで長い時間待たされた後、一つの病名が告げられる。「特発性血小板減少 性紫斑病」という聞き慣れない名前が。そう言えば、しばらく前からタトゥーのような 痣が身体に出来ていた。コドモと私は「まるで虐待してるみたいだよねー」と笑ってい たのだが、演劇の稽古で病院へ行く時間も無いくらいのハードスケジュールが続いてい たため、ついそのままにしていた矢先の出来事だった。公演が終わって2日後、全力疾 走したコドモは文字どおり力尽き倒れたのであった。この日から、私の胸に鉄のタガが はめ込まれた。あのハインリッヒのようにー。 入院ははじめてではなかったが、今回の入院は長くなると予想された。その中でも彼女 にとって一番辛かったのが、骨髄検査だった。本人曰く「もう一生骨髄検査はしない!」 との事である。或る人に言わせれば「麻酔もかけずにいきなり目玉をくり抜かれるよう な痛み」なのだそうである。勿論大泣きした。母(私)は、30メートルくらい離れた 待ち合い室に強制退去させられたのだが、それでもその声は聞こえた。病名を確定する ためとはいえ、過酷な検査である。大の大人でも泣くという話も聞いた。 だが、苦しい事もあれば楽しい事もある。そこが、たとえ病院であっても。彼女にとっ て一番楽しかった事は、保母さんと遊んだ事だそうだ。偶然にもシルバニアファミリー (エポック社から発売されている子供向けドールハウスと動物ファミリーの玩具)ファ ンの保母さんだったため、お別れの時には、レア物のブラウンウサギの赤ちゃんをいた だいた。 お友達やそのお母さんにも、お見舞いにいらしていただいたり、ビデオを貸していただ いたりと、本当にお世話になった。小学校の図書館司書兼学童クラブの先生には、図書 館へ行けない子供のために本を選んでいただいたりもした。祖父母や担任の先生方、ま た友人達にも何回も足を運んでもらった。多くの方のおかげで、ベッドから動いてはい けない入院生活を乗り切る事が出来たと、今でもたいへん感謝している。そして、9才 の誕生日を彼女はベッドの上で迎えた。いつもの年であれば、お友達を呼んで一緒にお 祝いをしてもらうスペシャルな1日を、病院のベッドの上で。 3週間におよぶ入院生活を終え退院。それからしばらくは家で過ごした。それは平和な 時間だった。コドモにとって、家は本来の住処であるからだ。植物が土地に根付いてい るように、コドモもまた家に帰属している。決して病院には属していない。そろそろ家 でブラブラするのにも飽きてきた頃、学校へ通い始める事ができた。三度の飯よりも( ?)学校が大好きな彼女は、実に嬉しそうだったのを覚えている。その頃の私は「治る」 と思い込んでいた、というより思い込んでいたかった。半年で治れば急性、それ以上か かるようならば慢性、というのが定説であるらしかったし、子供の場合、その多くは急 性であると記述されていたからだ。 そして、2週間に一回の定期検診に通う生活が始まった。学校があり、学校行事があり、 クラブ活動や習い事もある、その合間を縫っての通院である。きっと、身体がキツかっ たのだろう、行き帰りの車中でも良く眠っていた。宿題をしていて、鉛筆を握ったまま 眠りこんでしまう事も多かった。まるで、国民学校の教科書に載っていたという逸話「 木口小平は死んでもラッパをはなしませんでした」みたいじゃん! この親とは似ても似つかぬ「頑張ってしまう性格」が、或る意味で発病に関与している ようにも思えるのだが…。 通院自体は、あまり楽しい行事ではないので、行き帰りのどちらかに雑貨屋さんへ立ち 寄る事が、いつしか習慣と化していった。コドモにとっては、そこで長い時間をかけて シールを選ぶのが、通院日における最大級の楽しみだったのである。家の母に言わせる と、私は「甘い母親」であるらしいが、真っ向から否定出来ないのは、「雑貨屋」の件 のような事が多々あるためである。 2004年 果が出て診察の時間になるまで、外の待ち合いで時間をつぶす。多くの場合、本を読む ため、コドモは病院の待ち合い室を「読書室」と呼んでいた。通院の日には必ず学校の 図書室で本を借りて来たものである。「ハリー・ポッター」や「ダレンシャン」などが 、コドモのお気に入りで、そういう子供向けの本を私も貸してもらって読んだ。こうし て往復に1時間、病院で1〜2時間、計3時間が、2週間ごとに費やされ、瞬く間に数 カ月が過ぎていった。 病状的に面白かったのは、風邪を引いたりインフルエンザに罹患すると、一旦数値がぐ んと下がり、その後急激に上がる事である。そんな時、私は淡い期待を抱いたものだが 、その期待が現実になる事は無かった。学校へは通っていたが、目に見える障害がある 訳ではないし、本人にも自覚症状は無いため、大きな怪我をするのが一番の心配だった 。数値が低い時は、内臓からの自然出血や脳出血の恐れがあると主治医に言われていた ためである。だが、幸いな事に、担任の先生に恵まれ、学校での安全には十二分に気を 配っていただいくことができた。 暦は春になり、コドモは4年生になった。担任の先生もクラスも変わり、しばらくは慌 ただしい生活が続いた。その一方で、病気の方は、恐れていた「慢性」との診断が下り 、片っ端から紙きれにサインをしたあげく、特定疾患医療受給者(いわゆる難病患者ね )との指定を受けた。現在、特定疾患に指定されているのは48疾患だが、そのどれも が難治性の病気である。もちろん医療費の補助はありがたい。が、特定疾患の指定を受 けた事は「治りませんよ」と言われたようで、正直なところ気が重かった。だが、2週 間に一度の通院を除けば、ごく普通の小学4年生の生活が、そこにあった。一方で親の 方も、病気と共生することに徐々にではあるが慣れていった。 と、そこへ一つの事件が持ち上がった。コドモはどちらかと言えばクールなタイプであ る。感情的にもわりあい安定している方だろう。そのコドモが3日続けて泣いたのであ る。原因はお友達に無視されたという事なのだが、それだけでこんなに泣けるものだろ うか?というくらい毎日泣いていた。一番の親友は、イギリスへ移住し、そう簡単には 会えない。 また、友人関係がやや複雑になってくるという年齢のせいもあるだろう。が、もし仮に そうだとしても、それは、今までに類のない情緒的な崩れ方だった。むしろ「壊れた」 という言葉に近いと私は感じていた。 この時点で、むくむくと疑問が沸き上がってきた。「これは、ステロイドの影響だろう か?」そしてまた「一体この病気は治るのだろうか?」と。定期検診には行っているが 、そこに「治る」という希望は見えなかった。医者がなにかというと口にする「薬が効 かなければ脾臓摘出も出来ますから」という言葉に、人間的な優しさは感じられなかっ た。私の感じたギャップを、ノンフィクション作家の柳田邦男は、「人間の事実」(文 芸春秋社刊)の中で、こう表現している。 以下引用 救命センターの集中治療室での十一日間、脳死状態の息子を見つづけたとき、知識のレベルでなく、全身 から湧き出てくる情動のレベルで、関係性のなかでのいのちと死、とりわけ肉親という二人称の関係性の なかでのいのちと死というものの重要性をひしひしと感じた。 すなわち「二人称の死」と「三人称の死」があるのだと。子供の場合、取りあえず「死」 ではないが、医者にとっては「三人称」、私にとっては「二人称」という点が、大きく 異なるのである。脾臓摘出うんぬんは、「三人称」ゆえの発言であろう。 だが「二人称」の私にとってはどうか?「ふざけんな!」(おっと失礼!)である。人 間の臓器はグリコのオマケではない。必然があって備わっているのだ。それを取り出す という考え方には、どうにも納得がいかなかったし、今もいかない。もし、仮に脾臓を 摘出したとしても、治癒率は60〜70パーセントである。つまり30〜40パーセン トの人間にとって脾臓摘出は無効なのだ。となると、医療行為というよりは、むしろギ ャンブルに近いと言えよう。担保は子供の命、そんな危ない賭けをする親がいるだろう か?少なくとも私には出来ない。(生きるための選択肢がそれしか無い場合を除く)ち なみに、イギリスでは、脾臓摘出が有効かどうかの検査が出来る。技術的には、日本で も出来るだろうと思うが、今だその類いの噂は耳にしていない。 発病から一年が経過した時点でハッキリ「これは、おかしい」と思った。2週間に一回 、30分かけて病院へ行く。検査をし、薬を処方され一時間ほど病院で過ごして、また 30分かけて帰る。その繰り返しが、である。検査、薬、検査、薬、だが、状況は何も 変わらない。薬はキチンと飲ませていた。たまには飲み忘れもあったが、飲ませるよう に心掛けたつもりである。が、治らない。その上、コドモの情緒的不安定はいっそう激 しさを増していった。数値の低い時は、学校へ行っている間中、心配で心配でたまらな かった。私の胸には相変わらずタガが必要だった。そして、鉄のハインリヒがそうであ ったように、私は望んでもいた。いつか普通の生活を取り戻すのだとー。当時の私が、 学校に望んだ事はただ一つ。「出かけた時の姿のままで返してほしい」というただ一点 のみであった。 帰宅してからが叉大仕事だった。泣き出すかと思えば笑い、笑うと思えば泣く。おまけ にその後は、寝るまで質問攻めだ。「どうして私だけ病気なの?」「どうして私だけ体 育もブランコもしちゃいけないの?」「どうして私だけ背がのびないの?」「ねえ、ど うして?どうして?」この問いかけに、一体どう答えればいいのだろうか? 私は答えてやれなかった。病気にはなんらかの意味を見い出していく必要があるとは思 っていたが、それは叉違う次元での話であって、10才の彼女にわかるよう上手く説明 するのはひどく難しかったのである。 私に出来る事は、ただ頷き、慰め、マッサージし、本を読んで静かに寝かせてやる、そ れだけでしかなかった。そのため、帰宅後夜寝かし付けるまでの間に、1日分の精力を 全て使い果たすような感じがしていた。当時の私は、昼間は体力温存をひたすら心掛け、 夕方からのケアに備えていたものだった。 そういう状況の中で、医者も治癒についてはなぜか触れない。ただ経過を見ているとい う感じである。ハゲに効く薬セファランチンに、なぜプレドニンを助ける作用があるの かというのも疑問だったし、医師に尋ねても明解な答えは得られなかった。そのセファ ランチンは処方される量が多く、オブラートの包みが2つになってしまう。9才のコド モにとってあまり飲みやすい薬では決してなかったし、嫌がることも多々あった。それ でも、なだめたりすかしたりして飲ませたのは、「治る」と思ったからだ。いつかきっ と「治る」とー。 定疾患にも指定されている難病、それがITPなのだなと思った。 やおら、私は、パソコンの前に陣取り、ネットで真剣かつ徹底的に調べあげた。検索し てみると、日本には無いがアメリカやイギリスにはITPの支援団体(http://www.it psupport.org.uk/index.htm)があったのである。しかしながら、そこで知った現実は 、あまりにも過酷であった。いわゆる西洋医学的な治療を受けている場合、治癒には向 かわず、むしろ悪化していくとしか思えないケースが多いのである。一番参考になった のは、PDSA(http://www.pdsa.org/)の中にある「ストーリー」というページ。 同じ病気の人達が、個人の経験をシェア出来るようにという意図で作られている。これ はたいへんありがたかった。 が、その中でサバイブ(いわゆる緩解状態ではなく治癒という意味での)していたのは 、全体の約5〜10パーセント程度にしかすぎない。また、そのいずれもが、代替療法 によって治癒を得ていた。この時から「代替療法」という言葉が、脳裏に焼き付いて離 れなくなった。翻訳ソフト(http://www.excite.co.jp/world/)を使っていたから「血 液井戸」なんて翻訳されてしまうサプリメントなどもあって笑う事もあったが、そこで 知らされたのは、本当にシビアーな現実の姿であった。特に「メモリアル」というペー ジが目に痛かった。そこは、特発性血小板減少性紫斑病と闘い抜いて倒れた勇者達のネ ット上の墓場だったから…。 いの火ぶたが切って落とされたのである。 「汝の敵を知れ」という言葉がある。私は、ホラ貝を吹くかわりに図書館に車を走らせ 、手始めに「免疫」という名前のつく本を手当りしだいに借りてきた。ITPは、自己 免疫疾患の一種だからだ。 。安保徹氏が福田稔氏とはじめられた「自律神経免疫療法」に関する本である。この本 によって、いつも頭にかかっていたモヤモヤした霧が晴れ、病気の根本的な輪郭がより 鮮明に見えて来たのである。専門用語も多く、カボチャ頭の私には理解しにくい場所も 多かったため、何回も何回も読みなおした。近年こんなに読み込んだ本は無いと言って も決して過言ではないだろう。 その結果、ステロイド剤を早く止めなければいけないと強く思った。医者に言わせれば たいした量ではないが、薬に過敏な体質が影響したのだろうか、彼女の様子は明らかに 以前と異なっていた。この情緒的な崩れ方は、ステロイドのせいではないのか?という 疑問は、読後、よりいっそう深まっていったのである。 それからの行動は早かった。本を閉じると同時に、自律神経免疫療法医のところへ電話 をした。予約が取れたのは3ヶ月後であったが、それまで何もせずに手をこまねいてい る訳にもいかないので、近くでも漢方医の予約を取った。 出来る事は何でもしよう!自分に与えられている能力は全部使おう!そしてサバイブし よう!それが、戦闘を開始するにあたって私のかかげたスローガンである。 数ある代替療法の中で、なぜ漢方をえらんだのか?それには理由がある。私は長い間、 生業の一環として草木染めをしてきたし、今も続けている。その仕事を通して、木や草 のもつエネルギーを実感していたから。体で感じていたと言ってもいい。うまく説明で きないのがもどかしいのだが、草や木には呪術的ともいえるパワーが存在すると、私は 確信しているのだ。あたかも地霊を信仰するブエブロ・インディアンの生まれ変わりで あるかのようにー。そのある種の信仰にも近い想念が、第一の選択肢として漢方薬によ る治療を選ばせたのだと思う。 さて、その頃の私は、文字どおり孤立無援、孤軍奮闘、まるでタクラマカン砂漠に迷い 込んだ野ネズミのように孤独だった。医学に関しては全くの門外漢であるにもかかわら ず、病気の原因を理解し、その治療方法を考えなければならなかったからである。しか も、その一方で、ステロイドの服用も続けざるを得なかった。副作用(むしろ薬害と呼 ぶべきだと私は思うが)の強い薬だとわかっていても、その時点でのコドモには、必要 悪ともいえる存在だったからである。 小児科の医師には「ギリギリの数値(メーリングリストなどからの情報でだいたい2万 と踏んでいた)でいいからステロイドを離脱したい」と言い(殆ど喧嘩腰だった)、漢 方医には「治すための治療をしてほしい」と言った。漢方医は言った。「治りますよ。 漢方的には、そう難しい病気ではないんです。」と。その言葉を聞いた時、どんなに嬉 しかったろう。そしてまた、どんなに怒りを感じた事だろう。対症療法しか治療法を持 たない西洋医学というものに。また、治癒のための治療をしてこなかった自分とその無 知に。 だから、その漢方薬のせいで薬疹が出た時は辛かった。「痒い」という子供の背中を掻 きながら、ただただ「ごめんね」「ごめんね」と繰り返す日々が続いた。ところが、と ころがである。なんと数値が急激に上昇曲線を描きはじめたのである。それは2週間後 も同じだった。25万という数字が、どんなにありがたかったことか!!! それは、普通の人が持っているごく当たり前の血小板の数値だったのだから。 ちょうどその頃、予約の順番が回ってきた自律神経免疫療法医のところへ行った。数値 は25万と上昇していたものの、一時的なものか永続的なものか わからなかったからで ある。また、「タイソウやシンギが使えないとなると困りましたねー」とB医師から言 われていたので、他にも使える薬があるか知りたかったからだ。主治医にカルテの開示 を要求するのははばかられたため(それほど患者の立場は弱い)、今までの数値や既往 症の記録を持って訪れた。「上手に治しましたね」とおっしゃっていただいた。後で完 治ではないとわかるのだが、その時の私は純粋に嬉しかった。 もう私は、タクラマカン砂漠で迷子になった野ネズミではない。幻の湖ロプノールを見 つけたのだ。片道2時間の道のりなんか何でもなかった。「とにかくこの先生におまか せしよう」と思える医者に出会えたという事実は、実に大きな支えである。自分で治療 計画をたてなくてもいいという事一つをとっても、充分に報われた気がした。古来、医 者というのは、ヒーラーとして、又呪術師として崇められてきた存在である。そういう 風格がC医師にはあった。リバウンドの心配があるとの事で、漢方薬を処方していただ いた。 12月、とりわけクリスマスは、我が家で最大のイベントである。当然、母たる私は、 一日中立ち働き椅子に座る間もないくらいなのだが、その翌朝、まだ寝ている私の耳に 大きな声が飛び込んできた。「ママー!見て見てー!」。それは、毎年繰り返されるク リスマスの朝の恒例行事なのだが、家中に響き渡るコドモの歓声が、いつもの年よりは るかに大きく、エコーさえかかって聞こえてきた。(「ママー見て見てー」「ママー見て見てー」 「ママ、見て見てー!」と文字にするとこんな感じ。)その声は、私にとって何よりも 嬉しいクリスマスプレゼントだった。そんな風に、クリスマスは思いっきりクリスマス らしく、お正月も目一杯お正月らしく過ごして、暦は2004年から2005年へとか
ウ、シャクヤク、センキュウ、ジオウ、オウギ、ケイヒ、トウキ、冬虫夏草のブレンド) 3月20日 薬疹のため、C先生に相談の上、服薬を中止。 4月25日 Cクリニック。薬疹ではないかもしれないとのお話だった。もし薬疹だ とすれば、漢方薬の産地が変わったのではないかとの事。同じオウギで あって も韓国産か中国産かで微妙に成分が異なるためという説明だった 。数値は20万あったが、リンパ球が500とやや少なめなので、一日 おきに服薬 することになった。処方は同じ。 6月 4日 Cクリニック。診察のみ。薬はなし。 あった。 9月13日 A病院。数値28万。白血球も正常。この状態が1年続けば「完治」との 事であった。 「私はたしかにその音を聞いた」 2005
まずにいての値だから、貴重な結果といえよう。が、主治医は『「細辛湯」はステロイ ド様の働きをする薬なので、細辛湯を飲ませるのもステロイドを飲ませるのも変わらな い』と言う。言えば喧嘩になるので、あえて口を閉ざしたが、大きな認識の差を感じた 。ステロイドは、コレステロールから作られているため、体内に蓄積されていくのであ る。と、どうなるか?体はどんどん冷えていき、それに伴って、関節リュウマチなど様 々なしかもより大きな弊害が出てくることになる。細辛湯は冷やさない。これが、一番 大きな違いである。 また「もし本当に漢方薬の効果があるのなら、血液内科の医者が一番に使うはずだ」と の指摘も受けた。が、漢方薬の場合、患者の体質に合うかどうかが、鍵となる。すなわ ち、医師の側に、患者の体質を的確に判断し効果的な処方を出せる力量が、強く求めら れるのである。残念ながら、こういう力量を持った医者は、まだ少ないと言えよう。 血液内科の医師は、マニュアル通りの処方しか出来ない事が多いため(というか、その ように教育されてきているため)、一番の選択肢とは成り得ないでいるのが、現状なの ではないだろうか。 られない」と。この場合のウチというのは○○字である。いったい○○字の精神はどこ に行ったのか?どうにも納得のいかない年賀の御挨拶ではあった。この件は、いつか天 国で(行く気か!)ア○リー・デュナンに会ったら絶対言い付けてやる〜! 1月17日 ステロイド剤は、子供のごく自然な成長をも抑制してしまう薬だ。子供は成長するのが 仕事だというのにである。そういう不自然な薬と縁が切れて良かったと心から思った。 事でホッとする。数値を上げるために「もっと体質に合った薬を出しましょう」とおっ しゃっていただき、処方が漢方製剤から生薬へと切り替わった。BクリニックのB医師 もおっしゃっていたが、生薬の方がより効果が高いようである。ネ○カフェと豆から入 れたコーヒーが違うようにーと理解する。しかも、冬虫夏草入りのスペシャルブレンド である。うぅ、お支払いがちょっと心配かも?)「冬虫夏草を飲めば血小板の数値はす ぐ上がりますよ」とのことだった。診察時間は、わずか10分程度だが、そのわずかな 時間内の短い会話からでも、C医師の知識量のハンパでない事が推し量られる。雪道を 2時間以上かけて通う甲斐があるというものである。 るのは苦ではない。治すための薬だからである。「ステロイドを飲みなさい」と言って いる時は、まるで毒を盛っているような気分であったのだから。 1月26日 、30分ほど待たされる。保健婦に案内され、10帖くらいの無機質な部屋の中へ入る と、窓を背にして一人の医師が座っていた。40代前半くらいだろうか?細いネクタイ をしめたVネックの上に繊細そうなマスクがのっている。若干瞬きが多いようだ。時代 が時代なら結核療養所にでもいそうなタイプ。「この人にわかるだろうか?」と私は思 った。このところ、私は主治医にムカついていて堪忍袋の緒が切れそうになっていた。 だから、相談に行ったのだ。 転院も考えていたが、適当な受入先は、近くに見当たらなかった。私の知る限り、万が 一の時に、受け入れ、適切な処置をしてもらえる病院はA病院しかなかったのである。 けれど、私は主治医と喧嘩腰で話をするのに疲れていた。というか、言葉を飲み込まな くてならない状況に苛立っていて、出来ることなら捨て台詞を残して転院してしまいた かったのである。それは実に甘美な想像だった。にもかかわらず、私はいつもいつも言 葉を飲み込んできた。なぜなら、そこを離れるのはコドモにとってあまりにも危険だっ たからである。テーブルに目を落としたその先に彼の手があった。そのボールペンを弄 ぶ指先は細く、青白かった。それを眺めながら、私はしゃべった。いかに医者がごう慢 でガマンできない人物であるかを、いかに勉強不足でステロイドが大好きかを、そして それが私にとってどんなに苦痛であるかを。ボールペンの動きが止まり、沈黙が部屋に 流れた。 医師は、言った。「それでも、喧嘩しちゃいけないんですよ。東京ならいざ知らず、こ の地方都市では他に選択肢は無いんですから。」「他に病院はないんですか?」「M市 まで行けばあります。」M市までは高速を飛ばしても小1時間はかかる。すると、私の 頭の中を読み取ったように彼は続けた。「お子さんの命がかかってるんでしょう?」と 。そうだ、コドモの命がかっている。と同時に、私は疲れていた。国吉描くところの「 デイリーニュース」の女みたいに。きっと私の落胆がわかったのだろう、彼は、両手を テーブルの上に置き、こう言ったのだ。「僕も誰とでも気が合うわけじゃありません。 医者だってガマンしているんです。」と。 医者もガマンしている!考えてもみなかった返答だった。私は驚きながらも、おずおず と主治医の側に立ってみた。主治医にすれば、治してやりたくともオカシナ母親が、漢 方薬なんていう得体の知れない薬に頼っていて、治療手段を封じられている格好だ。ど う低く見積もっても、医師にとってあまり嬉しい状況でない事は明らかだった。彼女も また苛立っていたのである。なぜなら、彼女もまた人間なのだからー。 お互い、間違うことの多い人間なんだもの…という視点に立った時、私のやるせなさは 消え去っていた。 人生の或る瞬間、コトバは救いとなり、救済をもたらす事がある。この時がそうだった。 少なくとも、この時の私は、彼のコトバに救われた。 その後、病気そのものの話になり、ステロイドを飲まずに数値30000あれば、まず 良好であるとの事や、子供の場合は良くなっていくケースが多い事も伺った。(沸き上 がる期待感)一番こわい脳出血の可能性は、約1パーセントだが、それも30000以 上あれば、激しい運動をしない限り、まあ心配はないでしょうという話だった。このま ま50000くらいになってくれるといいなぁと思うが、本日も子供は薬を飲まずに寝 てしまった。やれやれ。 2月9日 )「もし必要でしたらステロイドを処方していただいても…。」と申し上げてみたとこ ろ、意外な答が返って来た。「厚生省のガイドラインが変わりましたので、出血傾向が 無く、なおかつ数値が20000以上あればステロイドは処方しないという事になりま した。ですからもう少し様子をみましょう」と言うのである。治療にあたって決断した 「20000あればいい」という判断は正しかったのである。「ほ〜ら見たことか!」 と内心ほくそえんだが、態度はあくまで神妙にしていた。 2月23日 のだろう。130000あったので、体育解禁となる。 3月18日 この日がそうだった。R142にのってS市にあるCクリニックへ出かけたこの日が。 私とコドモは、家の近くでは存在すらし得ない巨大スーパーマーケットの中を嬉々と歩 き回って、幾つかの小さな買い物をした。交換ノートと去年からの約束だった水色のス カート、それに参加出来るようになった体育のための紅白帽。それから、偶然入った洋品店 で、コドモのキルトスカートを2枚買った。「え、いいの?」とコドモが不思議そうに 聞くので、私は値札を見せた。1枚300円だったのである。しかも、品物はそう悪く はない、まあ、スコッチハウスとまではいかないまでも、この価格なら許せるというも のではないか。 更に、以前から気になっていたローズガーデンをその日発見!何回もS市に通っている にもかかわらず、なぜかその日、その場所で。ユングの言うシンクロニシティか?「こ れは、もうあそこでランチをとるしかないではないか!」と言う私に、コドモは「イギ リス風?まずいんじゃない?」とのたもうた。そう、彼女は実にクールなタイプなので あ〜る。とにかくも、コドモはキッズプレートを注文し、私は魚がメインのランチを頼 んだ。英国風にしつらえられたレストランの中は、数人のお客がまばらなだけだったし、 椅子の座り心地はとても良かった。まるでローラ・アシュレイのカタログに入り込んだ ような気分だった。そして、壁にはルーベンスの版画。ランチは、美しくてリーズナブ ルでしかも美味しかった。終始、笑みを絶やさずにキッズプレートを平らげたコドモが 言った。「きっと神様からのごほうびだね」と。レストランを出た後も、いちごのタル トに添えられたミニバラの赤が、いつまでも鮮やかに残っていた。 クリニックで、C先生にも喜んでいただいた。「薬はなまけながら飲んで下さい」とお っしゃっていただいた時、コドモがニッと笑ったのを私はシカと見届けたもんね。発病 以来、コドモは多くを失った。健康や自由、時間や喜びを失い、情緒の安定までも失い かけた。無論、親にとっても同じ事だ。が、得たものもある。それを、一言で言うなら ば、希求するという事になるだろうか。治したいと希い、必死で求め、探し回るという ライフスタイルである。残念ながら私の発明ではない。たぶん、私はそのスタイルを両 親から学んだ。そして、心から願い動く時、いつも求めている答えは与えられた。「求 めよ、さらば与えられん」と大ベストセラー「バイブル」にもあるように。 時々、こんな風に思う。私とコドモは旅をしているのだと。地図は無い、自分で作る、 そんな旅だ。もっとも、行き先はほとんどが病院だから、そう面白いとも言えないのだ が。とはいえ、タクラマカン砂漠は超えたし、たまにはローズガーデンでのランチだっ てあるのだ。「Not so bad。そう悪くない。」そう呟やいている自分が、そ こにいた。 3月20日 が震源地らしい。胸腺細胞に働きかけているという事なのだろうか?と思う。翌日には 顔面にも広がり、翌々日には臀部にも出た。漢方薬は確かに効く。が、いわゆる「さじ 加減」が難しいのだろうなと思う。またしばらくは、コドモの「かゆいかゆい」につき 合ってやらなくてはならない。薬疹も出ず数値も危なくない程度にコントロールしてい くのが、今後の課題なのかもしれない。 4月15日 薬を止めて一ヶ月近くなるが、痒みがなかなか治まらない。最初胸に出現した薬疹は、 腹部に移動し、今は背中に多く見られるようになった。寝る前など掻きまくりである。 嬉しいニュースもある。身長が131、5cmになったのだ!コドモは忘れないように 手の甲にマジックで数字を書いて帰って来た。それでは、オカーサンも忘れないように ホームページに書いておくとしよう。 S市へ。学校を早退し1時20分に出発。小野竹喬作の日本画のような春景色の中をひ たすら走りCクリニックへ。4時の予約に滑り込む。数値20万。薬を怠けながら飲む ようにと言われる。一日おきのはずが、3日おきになったりする。体育の授業で逆立ち が始まったが、何の心配もしなくて良い数値であるのがありがたかった。「逆立ちだろ うがバク天だろうが何でもやってくれたまえ!」と励ますとコドモは言った。「で・出 来ない…。」 5月13日 A病院へ。数値27万。ステロイド服用中だったため、日本脳炎の予防注射を一回パス しているので、接種出来ないかとお尋ねしたところ、「漢方薬もステロイド様の働きを する場合があるので、漢方の先生にもお聞きして下さい」との事だった。ステロイドと 縁が切れて半年が経った。 6月4日 Cクリニックへ、というよりも、最近は、ローズガーデンでのランチがメイン。ついで に、巨大スーパーの中をうろうろして、更にそのついでに、クリニックへ立ち寄るとい う主客逆転の構図である。(先生、ごめんなさい)「たぶん、これで大丈夫でしょう」 とC先生。日本脳炎の予防注射についてお聞きしたところ、「厚生省の方針が変わって 任意接種になりましたから、しなくても別に結構ですよ。」との事だった。A病院では そんな事は何も言ってなかったぞ。やはり、セカンドオピニオンは必要かもしれないな 、とあらためて感じた。たぶん、来月の検診が最後の受診になるだろうと思いながら、 次回予約を入れて帰途についた。 7月14日 A病院へ。数値29、3万。白血球数も7000と良好な結果であった。 漢方薬の服用を止めてから一ヶ月以上が経過した。C医師の診断によれば 、おそらくこのまま治癒に向かうものと思われる。 9月13日 A病院へ。数値28万。漢方薬の服用を止めてから3ヶ月経過。主治医の 話によれば、完治と認められるのは、薬と縁が切れてから1年経過後との 事である。ああ、またあの七面倒くさい書類と格闘技するのであるか〜 (ため息)。 12月13日 A病院へ。数値28万。漢方薬を止めてから6ヵ月経過。が、医者は「 完治」という言葉を使いたがらない。使えよ!いや、使っていただけないで しょうか? 2006年1月 特定疾病なんとか証明書の更新をしていない。本当に困っておられる方 のために使っていただきたいと思うからである。ほぼ治ったのではないか? と思っているせいもある。必要な人に必要な援助を!と私は思う。 2006年 3月 A病院へ。数値18万。次回検診は一年後との事であった。なので 、個人的に「完治」と判断する事にいたしました。 ともあれ、一応、この辺で全体的な印象をまとめておくことにする。 1、一番驚いたのは、西洋医学と漢方医学とで、あまりに異なる病気の捉え方や治し方 の違いである。繰り返すが、あまりにも異なる!!漢方の先生は「風邪のウイルスが血 液に入り込んで悪さをするんですよ。だから、薬で洗い流してやれば(←この言い方は とても面白いと思う。)治ります。アレルギーの一種ですね。」とおっしゃっていた。 一方、西洋医学的見地によれば?数値が少ないのだからと、ステロイドで強引に免疫力 を抑え込んでしまう。それが効かなければ摘脾、と、どこまでも病気と敵対する考え方 である。あまりにも対症療法的にあり過ぎると私には思えてならない。このギャップは 、一体どこから生まれるのだろうか?実に不思議だ。もしも、一つの病院内で、漢方医 と西洋医が協力し合っていけるような体制があったなら、治癒に向かう病気も多々ある のではないか?と思った。 2、治療方針は、患者やその家族が決めるべきものだろうと強く思う。医師の権利のよ うになってしまっているのは、おそらく全国的な傾向なのだろうけれど、どこかおかし いのではないだろうか。 3、治癒のためには、信頼出来る医師と出会うことが鍵となる。それは今も昔も変わる 事のないごくシンプルな事実である。 以下は、個人的な感想。 4、血小板減少性紫斑病には急性と慢性があり、子供の頃、急性の紫斑病に罹患したこ とのある人はわりに多い。それだけに「私も子供の頃そうでしたが、治りましたよ〜」 とおっしゃって下さる方が何人かいらした。悪気でないのはわかるが、数値三万無い時 に言われてもツライ…。だから、病気に関する発言は、より慎重でなければならないと 思う。 5、子供(家族)が病気だというのは、やはりかなりのストレスである。そこへもって きて学校の役員(この地のPTA役員は異常に仕事が多い)をなぜしなければいけない のだろうか?自分の子が病気なのに、よその元気なお子さんの面倒までと〜ってもみら れませんわ、と、わがままな私は、つい思ってしまった。学校サイドでも親の負担を減 らすような体制があるといいなと思う。現実的には、村八分的視線を背中にピリピリと 感じながらバックレたのだが。 3、ステロイド剤に関して私は過剰反応しすぎているかもしれない。が、薬は常に毒と しての一面を持ち合わせているものだ。人間が生きていく上で必要な免疫反応を抑え込 む薬が、とうていいいとは思えない。友人はステロイド剤を4年間飲み続けた後、癌に なり亡くなった。発病からその死までがあまりにも早く、おそらくは、もう癌と闘うだ けの免疫力が、その時の彼女には残されていなかったのだろうと思う。その彼女は、亡 くなるギリギリまでコドモの事を気にかけていてくれたのだが、ステロイドを服用する ことにはひどく懐疑的だった。メールの最後には、いつもこう書かれていた。 「ステロイドと早くお別れできますように」と。 だから、ステロイドと縁が切れた時、私はまっ先に彼女に報告した。その時、もう彼女 は、この世の人ではなかったため、彼女の好きだったグールドを聴きながら、心の中で の報告となったのだけれど。 6、今、コドモは、治癒に向かっていて(正確には数値が上昇し1年経たないと完治と は言わないらしいが。)、心からありがたいと思っている。あらためて、ここへ至るま でにお世話になった全ての方々に感謝の言葉を述べておきたい。「沢山のリトルヘルプ をありがとうございました。」と。多くの方が、御自分の出来る範囲で、出来ることを して下さった。それが、大変ありがたかったし、今後、私も出来る範囲でのリトルヘル プをしていきたいとあらためて思った次第。そういう意味に於いて、この一文が、全国 に31429人おられるというITPの皆さんにとってのリトルヘルプたらん事を、強 く強く願うものである。そして、あなたの胸をしめ付けている鉄のタガが、いつかハズ れたなら、それはどんなに幸いだろうか。だが、それはきっといつかハズれ、あなたは その音を聞くだろう。私が、たしかにその音を聞いたように…。 それでは、あなたやあなたのお子さんが、きっときっとお元気になられますようにとー 深くそして心から祈りながら筆を置くことにいたします。
長文をご拝読いただき、たいへんありがとうございました。
2006年3月 2008年8月現在、お陰さまでコドモはまったくフツーに生活しております。 丸山 敦子 |
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